木曽街道六十九次 支蘓路ノ驛 浦和宿 淺間山遠望
渓斎英泉/木曽海道六十九次
支蘓路ノ驛 浦和宿 淺間山遠望
きそじのえき うらわじゅく あさまやまえんぼう
【模写絵師つね吉】2023年〜2024年ごろ、水彩にて模写
「木曽街道六十九次」は1835年〜1837年ごろ 歌川広重と渓斎英泉が連作で描いた浮世絵のシリーズです。 (木曽海道と表記されることもあります) 江戸・日本橋と京都・三条大橋を結ぶ69箇所の宿場 そして出発地点の日本橋 合計70枚で成り立っています。 「名所江戸百景」全120枚を描き終えた、つねきちが 次に挑戦したのがこちらになります。
江戸時代の埼玉県は「武蔵国」などと呼ばれ、江戸の経済を支える穀倉地帯の一つとされていました。また平地が多く、北関東のあらゆる山がここからのぞめたようです。
絵の中で煙をふいているのは、当時からたびたび噴火をしていた浅間山です。
手前を歩くのは荷を積んだ馬と、それをひいて歩く馬子。鼻歌でも歌っているのでしょうか。なんとも機嫌の良さそうな顔をしています。その後ろでは子供が馬糞を集める姿があります。
つね吉が描く柔らかな筆線から、人や動物のぬくもりが伝わります。
右側には熊手を持つ男と、荷物を運ぶ人がいます。
「浦和宿」という題がついていますが、実際の浦和宿付近に川は流れていなかったそうで、ここはもう少し離れた場所なのではないかと言われており「焼米坂」(やきごめざか)の辺りではないかという説もあります。
「焼米坂」の地名は現在も残っており、「焼き米」を食べさせる茶屋が何軒もあったことがその名の由来だそうです。
「焼き米」とは籾(もみ)のまま炒った米をついて殻を取り除いたもの。
江戸時代では保存食や携帯食として活躍したようです。
そのままでも食べられますが、お湯や水に浸しお粥にして食べたりします。
この浦和辺りを超え京都へ向かうと、しばらく鰻を食べられるお店がなくなってしまいます。
そのため浦和や蕨あたりで鰻を食べていく人が多く、特に別所沼で獲れた物が有名でした。
今でも浦和には鰻屋さんが多くあり「浦和うなぎ祭り」や「うなこちゃん」というキャラクターが存在しています。
また、近くにある「調神社」(つきじんじゃ)は平安時代より前から建てられていると言われています。「調」には「年貢」という意味があり、昔はこの調神社に年貢が集められ朝廷に届けられたそうです。「調神社」の「調」の音は「月」とかぶるので兎の神使(しんし)と繋がっています。
地元では「つきのみや」と呼ばれるこの神社には鳥居がなく、狛犬ではなく兎が置かれているのです。
埼玉生まれのつね吉も、この辺りは何度も行き来をしました。
描きながら何となくほっとする気持ちになったかと思います。
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