東海道五十三次模写(2017)その②


見附宿。

現在の静岡県にある天竜川の図で、西から来た旅人が最初に富士を見付けられることから

この名前がついたと言われたようですが、実際は水に面していることからみつけ、の地名になったようです。

大井川ほど流れは急ではないが水深がある為、人や荷物も船で渡していました。

中洲があり大きな川をふたつ越えなくてはならなかったようです。

次のお客を待ちながら一服する船頭たちを、つねきちは愛嬌たっぷりに描いています。

大井川同様、川止の際には周辺が旅人で賑わったというこの辺り、今では立派な橋が架かっているそうです。



浜松宿。

天竜川を渡ると静岡県浜松市内、この辺りも関東と関西の中間点になります。

昔三方ケ原の戦いで家康が信玄に惨敗をし逃げ帰った浜松城がある大きな宿場町です。

見晴らしのよい野原で、焚き火をしながら休憩をする雲助と旅人。

正面に見えるのは ざざんざの松 といって、その昔、足利義教が枝ぶりを気に入り

「浜松の音はざざんざ」と詠って酒盛りをした森の松のうちの一本だそうです。

その後、狩野元信という画家がこの松を描こうとしましたが、毎日枝ぶりが変わって

とても筆が追いつかないので描くのを諦めた、という話があります。

殺風景な田舎の風景にも見える一枚の絵にこめられた様々な逸話とともに、つねきちは

まるで煙に巻くように、ざざんざの松を描き上げました。


舞阪宿。

つねきちから鮮やかな黄色に塗られた雲ひとつない大空に険しく切り立った山。

この辺りは江戸時代の大きな地震による津波で関所は大破、民家120軒が流されたそうです。また、浜名湖と海を隔てていた陸は切れ、今切れの渡し(今切れたばかり)という船が動いていました。

波風も強く、渡し船を守る為に左手前にある木の柵が打たれたといいます。

それでも蛤の産地で漁船が数隻描かれています。

山の向こうでは白富士が、この地にふたたび災害が寄らないよう、凛とし見守ってくれているかのように見えます。




新居宿。

舞阪宿の対岸にあり、こちらには高波で流される前の新居関所が右奥に描かれています。

とても厳しい関所で、規模も大きかったといいます。

そこに向け毛槍を立て幕を張って進むのは大名の立派な船。

左手前がお供の船で、つねきちの筆がのどかな雰囲気をより醸し出しています。

空は明るく波は緩やか。浜名湖の渡し船の悠々たる光景です。



白須賀宿。

静岡県最西端の宿場で、白い砂州の上にできた場所という意味があるそうです。

長い大名行列が下っているのは潮見坂(しおみざか)で、遠くの海との遠近感を出しているといわれています。

この辺りも1707年の地震の被害を受け、その後の宿場は高台の上に移転されたそうです。

生き抜く為の知恵とあらゆる努力で、昔の人々はこれらの地を今の私たちに残してくれました。

そのことに感謝の気持ちをこめて、つねきちもこの絵を淡々と模写させて頂きました。

二川宿。

現在の愛知県豊橋市二川と大岩町の辺り。豊橋に向かう列車の右側の窓から見える丘陵地帯だそうです。

小松が茂る寂しい地域にあるのは、名物柏餅を売るお店で当時は繁盛していました。

中央下にいる3人の女性に絵の主役的な存在を感じます。

当時「瞽女」(ごぜ)と呼ばれていた、三味線を背に全国を流し芸で生活をしていた、目の不自由な女性たちがいたそうです。福祉制度がなかった当時の生き抜く手段ですね。

娯楽に乏しかった時代にあって彼女たちの底抜けに明るい芸は、地元で暮らす人々や旅人達の楽しみでもあったようです。

つねきちもこの女性達を何か背負っている暗い雰囲気には描いていません。

きっとこの侘しい土地に人の逞しさや前向きさを運んできてくれ、「このくらいのことに負けるんじゃないよ」と言っているような、そんな姿が見えたのかもしれませんね。


吉田宿。

現在の愛知県豊橋市にある豊橋が描かれています。

当時は吉田川にかかる吉田大橋と呼ばれ、幕府指定の5大橋のひとつで、218メートル程の長さだそうです。

伊勢に行く早船が出ていて、陸を行くより3日早く伊勢に着くので、いつも満員だったそうです。

戦国時代には城下町として栄えたこの地で改装中の吉田城。

足場の上で職人が元気良く仕事をしています。

対岸に並んで見えるのは下地村の家並み。

つねきちはオレンジ色の空の下に紫を置き、今も健在といわれる大きな橋のあるこの地の未来を鮮やかに表現しているようです。


御油宿。

現在の愛知県豊川市内。

当時こじんまりながら多くの宿が栄えていた宿場で、宿どうしの競争も激しく、留め女と呼ばれる女達が旅人にしつこくしている姿が描かれています。

右側の宿にはこれから宿泊しようとする人が下女に押しを洗ってもらう所です。

室内に貼ってある札には絵師や版元などの名前が書かれ、当時の文化を感じさせます。

つねきちの描く人々の表情があどけなく、またとぼけた感じで微笑ましい絵になっています。


赤坂宿。

現在の愛知県豊川市赤坂町。

当時80もの宿で栄えていたこの地で、最も大きな旅籠・大橋屋(鯉屋)の中庭から見た風景です。

前出の御油宿とは2Km程の距離にありました。

風呂上がりにくつろぐ男性、按摩師、膳を運ぶ下女や、「おじゃれ」と呼ばれていた宿場女郎達がお化粧をする姿が描かれ、賑わう様子が伝わります。

この大橋屋には松尾芭蕉や広重自身も泊まった事があり、芭蕉は 夏の月 御油より出でて 赤坂や という句を詠んでいます。

時代と共になくなっていった宿が殆どなのに対し、大橋屋は2015年まで300年以上も営業を続けていました。

絵の中央にある大きな蘇鉄の木は、近くの寺院に移されているそうです。

山や畑の風景などとは違い、梯子段を降りてくる人の足や障子に囲まれた部屋の様子など、つねきちにとっては珍しく、楽しんでこの絵を描いていたようです。

藤川宿。

愛知県岡崎市藤川町。

松並み木で有名な土地で、岡崎観光きらり百選にも選ばれているそうです。

当時、幕府は毎年8月1日に朝廷に馬を献上するのが恒例で、その大名行列には広重も加わった事があるそうです。

地方のお役人がそれを見て土下座をしていて、隅の方で犬まで座っているのが微笑ましい絵です。

(ちょっと見えにくいかもしれません)

つねきちの描写がこの辺からまた少し細くなってきています。

右側の葉の模様なども丹念に描いていました。

模写にもだいぶ慣れてきて、自分なりのやり方を考え始めた頃です。


岡崎宿。

愛知県岡崎市の中心部にある矢作橋。

この橋では幼少の豊臣秀吉が蜂須賀小六(のちの秀吉の腹心)と出会ったと言われています。

橋の向こうに見えている岡崎城は家康生誕の城であり、一時は秀吉の家臣が城主になりましたが、後に家康の重臣が入りました。

五万石でも岡崎城はお城下まで船が着く と歌われるほど、この地は大事にされ宿場として栄えたそうです。

つねきちが得意とする橋は幾つもの橋桁に支えられ、沢山の旅人が行き来をしています。

独特の明るい色彩が放つのは、橋の向こうに見える未来よう。

過去を描いて未来を見せる。

それが模写器(もしゃうつわ)としての役割なのかもしれません。


池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)。

愛知県知立市(ちりゅうし)にある39番目の宿場です。

知立→池鯉鮒 となったのは、知立神社の池に沢山の鯉や鮒がいたからだと言われています。

毎年4月末〜5月初めの初夏の時期に、400〜500頭もの馬が集められ、馬市が開催されました。

中央の松の下では馬飼達がせりをしています。

青葉を食む若い馬たちに爽やかな風が吹き、つねきち自身の若さも香るような風景です。

そういえばつねきちは午年生まれ。

優しい気質で仲間が大好き、思い立つと一心不乱に駆け抜ける所が馬らしい(?)と思います。

オレンジ・白・ブルーの空が国旗のようで、伸びやかな季節のひとときを感じさせます。



鳴海宿。愛知県名古屋市内にあります。

今でも続く絞り染めの名産地で、藍色の暖簾が見えています。

また寺参りで有名な場所でもあり、「東海道の鳴海宿 寺銭用意しなはれや」というわらべ唄が残されています。

その中には桶狭間の戦いで信長に敗れた今川義元の為の供養寺もあり、歴史的にも存在感の強い宿場です。

つねきちには藍の印象が残ったのでしょう。店の暖簾と空の色などが統一され、落ち着いた感じの絵となりました。


宮宿。名古屋市熱田区にある熱田神宮で恒例のお祭りを描いています。

駆け馬と呼ばれる馬を走らせ、その速さでその年の豊作を占うというものです。

火が燃えている近くで半被を着た人々が威勢良く走っていて、活気に溢れた構図となっています。

色別に分かれ競っているのでしょう。命がけのお祭りという感じがします。

つねきちの描く人々の顔にも緊張感がみなぎっていますが、中には可愛らしい表情も見え、思わず微笑んでしまいそうです。


桑名宿。

三重県桑名市、東海道で唯一の海上路である、七里の渡しがあります。

お伊勢参りの玄関口でもあり、名物は白魚や焼き蛤。

桑名の焼き蛤といえば有名ですが、焼いた物は旅人がその場で食べ、しぐれ煮はお土産として売れていたそうです。

東海道には松並木が多く出てきますが、その松かさや松ぼっくりは焼き蛤の燃料として重宝されていたとのことです。

今回は大海原にいる船が蛤の形にも見えます。その後ろにある家並みはシックな色調で絵の強弱をさりげなく引き手てています。


四日市宿。

三重県四日市市にある三重川付近の光景です。

この辺りは風が強く、木や葉が風になびき、旅人の合羽は翻り、別の人の笠も飛ばされています。

葦がぼうぼうと生い茂る侘しい雰囲気の土地で、動きのある絵です。

左奥に見える黒いギザギザ線は、前出の宮宿との間にあった10里の渡し舟の舟先だそうです。

笠を追いかける人の顔がつねきちフェイスになっているのがご愛嬌です。



石薬師宿。

現在はサーキットで有名な、三重県鈴鹿市にありました。

収穫の終わった田畑の横道で荷を担ぐ人がいます。

ここには眼病治癒で有名な石薬師寺があり、参勤交代の大名も立ち寄り安全祈願をしたそうです。

暮れなずむ紫色の空の下でも色あせない宿場の様子が伺えます。


庄野宿。こちらも同じく三重県鈴鹿市内です。

白雨(はくう)は夕立やにわか雨のこと。

「山下白雨」という北斎の有名な作品がありますが、そちらは変わりやすい山中の気候を富士の位置から描いたもので、こちらはその下界部分ということになるでしょうか。

急な雨風に右往左往する人々の活力溢れる光景です。

実際の広重作品ではもっと激しい雨が描かれていますが、つねきちの模写では緩やかなほどにおさめています。

これは、つねきちが人に雨をあてたくないから。

例え模写とはいえ、少しでも人に攻撃を与える事には抵抗があり、少々こだわりの部分です。

他の雨の絵でも同じような現象が起きていると思います。

にしても雨にけむる鈍色(にびいろ)の雰囲気は出せているかと思います。合羽や笠の黄色も統一され、全体のバランスを整えています。

亀山宿。三重県亀山市内にある亀山城の京口門の下、雪に埋もれた坂道を大名行列が登っていくさまを描いています。

広重が得意とした月・雨・雪のうち蒲原宿と並ぶ雪景色と言われている作品です。

真っ白な雪に幾種類ものグレーを重ね、静かで広大な冬の朝を感じます。

つねきちは笠に黄色を使い静寂の中に動く人の体温を表現しました。

厳しい自然の中で凛と生きる人間たちを、美しい季節のワンシーンとした構図です。


関宿。三重県亀山市にあり江戸時代は大変賑わった宿場といわれています。

632件の家、旅籠42件、本陣2つ、脇本陣2つがあった場所で、今も国の重要伝統的建造物群保存地区にしてされ、資料館などとして残されています。また旧建設省により日本の道100選に選ばれました。

江戸時代から伝わるお祭りでは16台もの山車が出て、それぞれに豪華さを競い合い「これ以上の物はない」という状態だったので、そこから「関の山」ということわざになったそうです。

絵では家紋入りの幕を垂らした大名の本陣が、朝じたくをする様子が描かれています。


坂下宿。関宿の坂下にあった宿で、人口は500人あまり、難所の鈴鹿峠を通る人々で賑わっていたそうです。

左手から横に連なる筆捨山は、その昔狩野元信という絵師が描こうとしたところ、山の風景がどんどん変わってしまい描くのを断念した事からその名前がつきました。

複雑で幻想的な風貌を持った山の姿を眺めながら、茶屋で一服休憩をする人々の姿が見えます。

旅人や荷物を運ぶ馬子達は「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と歌いながら働いていました。

坂とはこの坂下の事で晴れる事が多く、鈴鹿峠は曇りがち、そして次に出てくる土山は雨が多かった、という意味のようです。

山を描くのが得意なつねきちは、この不思議な風景を自分流の色合いで仕上げ、明るく温かな雰囲気にまとめています。


土山宿。現在の滋賀県甲賀市にあたります。

鈴鹿峠を境に気候はがらりと変わり、雨がちな土地であった為、蓑笠を被った人々が見えます。

坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る、の歌に出てくる「あいの土山」の「あい」には藍染が盛んであったとか、あゆの名産地であった、また「あい」は「まもなく」の意味で、まもなく雨が降る・まもなく土山に着くの意味がある等諸説があるようです。

鈍色の土地で合羽の色鮮やかさに少しだけ救われる気がします。

実はこの絵に実際は土砂降りの雨線が描かれていたのですが、つねきちは人に雨や雪をあてる事を嫌がり、線を省いて描いています。

これはどの模写でも同じで、前出の雪景色などでも人が濡れないよう気にしています。

また、お天気にこだわるのも障害特性のひとつであり、雨を描く事は避けたいようです。

水口宿。同じく甲賀市内にあたる宿で、石橋を境として道が三つに分かれ、そのひとつが水口城の城下町に繋がっていました。

この水口城の城主が栃木から移入した干瓢を農婦達が干している姿があります。

原料となるのは夕顔の実。これを細く長く割いて紐を垂らすように干していきます。

家の塀にまで干してある所を見ると、そこらじゅうにあったのでしょう。土地の風物詩とも呼べます。

子供をおぶっている女性や年配の女性もいて、当時の庶民の暮らしぶりを感じさせます。


石部宿。京都から1日で着くこの宿は「京立ち石部泊まり」といわれ、豆腐田楽が名物だったそうです。

旅人達がこの辺りで休憩を取り、酒も飲んでひととき楽しむ姿を描いています。

この茶屋は「田楽茶屋」として旧東海道沿いに再現されているそうです。

険しい峠や雨の旅路を超えた後に訪れるのどかな光景です。

草津宿。滋賀県草津市にあった宿で国の史跡に指定されている場所です。

琵琶湖の近くで交通や交易の場として栄え、大きな早籠が走っている様子も伺えます。

茶屋では名物「うばが餅」を食べる人々がいて、奥では女達が餅をこねています。

当時の旅の目的の殆どは神社仏閣へのお参りや湯治場へ行くものだったそうですが、険しい道中での楽しみが茶屋で休憩をしてお団子やお餅を食べる事でした。

特にお餅は腹持ちがよいので旅人に喜ばれたそうです。この場所も様々な口コミが広がり賑わっていました。

大津宿。琵琶湖の南側にあり、東海道五十三次の中で一番大きな宿場でした。

「走り井」という水がこんこんと湧き出る井戸があり、この店は走井茶屋と呼ばれ繁盛していたそうです。

また、ここでもお餅が大人気で「走井餅」が名物でした。

この辺りは京都への輸送に使われており、荷物を沢山積んだ牛車が通りやすいよう、下には花崗岩(かこうがん・みかげいし)が敷かれていました。

この石は明治時代には撤去され石垣などに再利用されたそうです。

良質の井戸の側で商売をしたり、道を工夫してお客を集めるなど、当時の人々のよりよく生きる術が学べる絵です。



三条大橋。500キロにも及ぶ東海道の終着点となります。

ゆるやかに流れる鴨川にかかる橋からは清水寺を眺める事もでき、橋を横行する人々も江戸日本橋とは様相が異なっていました。

頭の上に荷を載せ京に物を売りに行くのは大原女(おおはらめ)、また舞妓さんや芸妓さんの姿も見え、栄える京都の雰囲気が伝わります。

この辺りの河原は江戸以前より処刑場として使われ、歴史上の有名な人々も対象となっていましたが、東海道の重要な役割を担う公儀橋として度々修復が行われています。

現在でもまた老朽化が進んでいるものの、修理には莫大な費用がかかるため寄付金の募集をし続けているそうです。



よいことも、そうではないことも

全てが相まって私たちの国を創り上げました。

そのことに感謝の想いを持ちながら

模写絵師つねきちと共に

日本の歴史を訪ね、新しきを知る旅の

まずは第1章がこれにて完結となりました。

ご覧いただきありがとうございました。


(つねきちの母)