下谷廣小路 ーしたやひろこうじー
歌川広重名所江戸百景より
下谷廣小路 したやひろこうじ
模写絵師つねきち水彩画
現在の広小路にあたる場所、台東区上野 上野公園入り口から松坂屋に至る一帯を描いたものです。
1657年明暦の大火の後、この地は道幅を広げた火除け地となりました。
その広い道を江戸歴代の将軍たちは 寛永寺参拝(歴代将軍の墓がある)
の為の 御成道として使ったので
付近に食料品店や飲食店が集まる繁華街となっていたそうです。
しかし1855年11月に起きた安政の大地震の際、 多大なる被害を被り壊滅状態となってしまいました。
震度6以上といわれるこの天災においても
特に火災での被害がひどかったそうです。
紺と赤の暖簾がひきたつ建物は 伊藤松坂屋。 現在の松坂屋です。
もともとは織田家の小姓の子孫で 伊藤蘭丸祐道という人が 伊藤呉服店を開いたのがはじまり
だったそうです。 伊藤呉服店は江戸に入り、上野と大伝馬町に店を出しました。
上野にあるのが鶴店、 大伝馬町にあるのが亀店と呼ばれ
大伝馬町店については前出の 大てんま町木綿店にも登場しています。
※大てんま町には明暦の大火ののち、
防火設備を整え同業者で団結して作った
長屋のショッピングモールがありました。
安政の大地震の約1年後に 松坂屋は立ち直って新装開店します。
この際、日本三大財閥のひとつ三井財閥の大元である三井越後屋が、お祝いの鯛を贈ったといいます。
華々しく復興の先陣をきった松坂屋。
赤い花笠のパレードは
そののち日本一の売り上げ店に
上り詰める事を示唆しているよう。
広重がこの絵を完成させたのは その松坂屋の店が出来上がる前だといわれています。
ですのでこの絵は 冬物大売り出しの前広告といえます。
自然の大災害でもくじけず 次の手を打っていく。
身震いするほどの復活力です。
松坂屋は初のエレベーターガールの導入や 制服の完全洋装化を取り入れました。
生き残っていく為に必要なのは 諦めない、そして 常に新しい物を取り入れること。
今よりずっと不便だった筈の遠い昔から
私たちはたくさんの学びと エネルギーを受け取ることができます。
名所江戸百景は 復興の文化の宝庫。
つねきちは夢中で描き続けています。
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