よし原日本堤 ーよしわらにほんづつみー

歌川広重名所江戸百景・冬の部より

「よし原日本堤」

よしわらにほんづつみ


現在の東京都台東区付近にある

大きな土手の上を

たくさんの人々が歩いています。

行き先は新吉原遊郭。

この土手は1621年ごろ

徳川幕府の命により

全国の大名が60日という短期間で

築いたと言われています。

絵の上部右側に見えているのが

明暦の大火後、日本橋からこの地に

移された新吉原。

そのうえを飛ぶのは雁の群れで

いかにも日本の風土にふさわしい光景です。


その手で深みに 浜千鳥

通い慣れたる土手八丁

口八丁にのせられて

沖の鴎の二挺立ち 三挺立ち

(教草吉原雀より抜粋)


*遊女の手練手管の深みに嵌り
土手八丁をせっせと通う男たち。
上手いことを言う口車にのせられて
鴎(かもめ)のように飛んでいく男たち。
と、いった意味になります

この頃、男性にとって最高の夜遊びと言われたのが

隅田川を猪牙舟(ちょきぶね)で山谷堀まで渡り

船を降りたらこの土手を歩き

もしくは籠に乗り

八丁(約872m)移動して

吉原に到着して遊ぶ、というもの。


猪牙舟というのは普通の船よりスピードが出せるので

それだけ急いで吉原に向かったということですね。

そこまで早く行きたいのか、と言いたいところですが

当時の吉原付近には一日に数千人が訪れたそうですから、

先を争って、向かっていたのかもしれません。

絵を見ると本当に行列をなしているようです。

ここに出てくる「山谷堀」に

ちなんだ絵も、つねきちがすでに描いております。

*転写防止の為ロゴマークをお入れしています。


とはいえ、こちらの浮世絵が発売となった時

吉原は安政の大地震で崩れたばかり

だったそうです。

ですから、こちらはあくまでも

復興への想いが込められた

広重さん(?お弟子さん?)の未来予想図だったようです。

この土手の土は山谷堀の

山を削り

堀を使って資材を運び

作られたそうです。

1927年(昭和の初め)に切り崩され

現在では「土手通り」という

地名が残っています。

実際には元々土手はなく

お堀の両側を土手と呼んでいたとか

様々な説がありますが、

つねきちの力強い描線が

復興と繁栄への強い願いを

隅々まで渡らせた

重みを感じる一枚となりました。

模写絵師つねきち八卦鏡

知的障害を乗り越え描く、無垢な魂の筆使い。 つねきちが描く色合いは、渋みが主流の浮世絵とはちょっと違っています。 彼の目には江戸時代の景色がそのまま映っているからです。 そんな独特の「つねきち流儀」をお楽しみください。

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