両国花火 ーりょうごくはなびー

歌川広重名所江戸百景より

秋の部・両国花火(りょうごくはなび)

水彩にて 模写絵師つねきち


隅田川を間にはさんで

武蔵国(埼玉・神奈川方面)と

下総国(千葉方面)の

間に架けられた橋は

両国橋と呼ばれ

その名にちなみ、この近辺は

両国と呼ばれるようになりました。

今でいう、隅田川花火大会の最古にあたるのが

この、両国花火。

1733年、江戸に疫病がはびこり

不作と共に米価が高騰、

そこから大飢饉に繋がったことで

多くの人々が犠牲となりました。

翌年、八代将軍の吉宗が行った催しは

慰霊と疫病退散を

水神祭にからめたもの。

両国では許可を貰った料理屋が

盛大な花火をあげた。

それが、両国花火のはじまりと伝えられています。

他国からも高い評価を得ている

日本の花火の技術は

江戸時代、大いに進歩を遂げました。

屋形船で見物に来る人々や

徒歩で橋の上から鑑賞する人々で

川の上は溢れかえり

通行規制があったほどです。

明治時代には、見物人が殺到し

その重みで橋が落ちたそうで

その後は、鉄の橋が架けられました。

現在はハイテクなどで

カラフルな花火が多くなっていますが

当時の、この

花火らしい花火を

こうして見ると、なかなか粋なもの。

つねきちが珍しく

やんちゃな筆使いをしているのがわかります。


打ち上げ花火を一番最初にあげたのは

”鍵屋”といわれ

そこから暖簾分けしたのが

”玉屋”だそうです。

双方はお互い別々の場所から花火をあげ

それを見た観客が

優れていると感じた方の

名前を呼んだそうですよ。


※その鍵屋が元々信仰していたのはお稲荷さん。

二体いるお稲荷さんは

それぞれ”鍵”と”玉”を持っていました。

”鍵屋”と”玉屋”の屋号は

ここからの由来だそうです。


令和四年の花火大会は

残念ながら中止となったそうですが

こちらの絵を見て

ほんの、つかのま風流を

楽しんで頂ければ幸いです。

模写絵師つね吉八卦鏡

知的障害を乗り越え描く、無垢な魂の筆使い。 つね吉が描く色合いは、渋みが主流の浮世絵とはちょっと違っています。 彼の目には江戸時代の景色がそのまま映っているからです。 そんな独特の「つね吉流儀」をお楽しみください。

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