目黒元不二 ーめぐろもとふじー
歌川広重名所江戸百景より
目黒元不二
めぐろもとふじ
水彩にて模写つねきち
上目黒一丁目の目切坂上にあたる場所に
目黒村の富士講の一行が築いた富士塚がありました。
富士講は江戸時代 熱狂的ブームを巻き起こした富士信仰
富士塚は実際の富士登山が困難な人々の為に
近場に作られたミニチュアの富士山です。
元不二にはつづら折りの登り道があり
頂上には浅間神社が置かれていました。
目黒村の富士講のシンボルマークが
○に旦の字だったので この富士塚は丸旦富士とも呼ばれました。
大きな一本松を つねきちがしっかりと描いています。
幹の質感や葉の濃淡
輪郭線に渋味と温かみが感じられます。
丸旦富士の頂きから眺める本物の富士山は 格別なものだった事でしょう。
富士山の前にあるのは丹沢山で、
その手前には田畑が広がり
さらに手前に目黒川が流れています。
丸旦富士の高さは約12メートル
ビルなら3〜4階にあたります。
桜の下で人々が花見をしています。
でも、実はこの絵の景色は秋頃、といわれています。
確かにみな厚手の着物を着ているよう。
初版では紅葉だった木が 版元により途中から桜の色に刷られたそうです。
よく見るとピンクと茶色が混ざった不思議な色合いですよね。
この元不二のあった場所は のちに岩倉具視の別荘地となり
庶民が出入りできなくなってしまいました。
その為、富士講の信者達は 幕臣の近藤重蔵に頼み、
重蔵の邸宅内に築かれたのが 前出の目黒新富士、というわけです。
心の拠り所を失った人々は 諦めることなく
また別の場所にそれを求めました。
春には桜
秋には紅葉
季節が変われば景色も変わるように
人の心は時の移ろいにさえ馴染みます。
元不二とのご縁は心の中に大切にしまい
新しい富士塚で楽しむ庶民たち
本物に登れないからと 代わりの山を作る工夫。
出来ないからではなく 知恵を絞ってその時を楽しむ。
そこから学べる事があります。
江戸百景はこちらで26枚が仕上がりました。
つねきちはもう 江戸百景を全て描き終えた後の事を 考えています。
次は何を描いたらいいのかな? と、
先の先までの楽しみを探しているようです。
その合間に油絵も描き 個展に向け、はりきっています。
じぶん、いま、パワフル入ってる。
だそうです。
百景の模写はまだまだ続きます。
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