目黒新富士 ーめぐろしんふじー

歌川広重名所江戸百景より


目黒新富士


水彩にて模写 つねきち



1819年 幕臣で北方探検家でもある近藤重蔵(じゅうぞう)が


本宅の他に持つ広大な土地に


富士山をかたどった富士塚を作りました。

江戸時代、熱狂的に普及した富士講のお話は
「諸人登山」
でアップしております。


重蔵はこの富士講の信者達に頼まれて
邸宅内に富士塚を置いたそうです。


近くにはすでに他の富士塚もあったので
ここは新富士と呼ばれました。


頂上には食行身禄(しょくぎょうみろく)を祀った
小烏帽子の石と祠がありました。

目黒川沿いで咲き誇る桜たち


邸宅の門前には出店が出るほど
庶民達で賑わっていたそうです。



当時の近藤重蔵と並び
同じく北方の探検家で公儀隠密であったと言われる、間宮林蔵と
伊賀流の兵法家、平山行蔵(こうぞう)は
「文政の三蔵」と呼ばれていました。


江戸後期、幕末にかけて日本の重大な鍵を握っていた人達です。



実際に富士山に行くのは難しくても
塚に登れば気持ちが安らぐ信者もいたことでしょう。


大衆の気持ちを掴み、ますます力を持つ幕臣と
江戸幕府との関係には
絶妙なバランスが必要だったと思います。


この頃、近隣の人々からは「お富士さん」と呼ばれていた富士塚は
今では「ミニ富士」などといわれているそうです。


昭和34年まで残っていましたが
現在は自然石の碑があるのみとなりました。


いつの時代も
人との関係にはバランスが大事。
強くなりすぎないよう

近づきすぎないよう
そして本気になりすぎないよう
心のさじ加減が必要です。


中庸(ちゅうよう)という言葉がありますが
波風を立てず安らかに保つことこそが
もっとも難しいのかもしれません。


遠くの富士山を眺めることで気持ちを鎮め
中庸を保っていた、江戸時代の人達のように
私たちも心安らかに
新しい時代を迎えたいと思います。


模写絵師つね吉八卦鏡

知的障害を乗り越え描く、無垢な魂の筆使い。 つね吉が描く色合いは、渋みが主流の浮世絵とはちょっと違っています。 彼の目には江戸時代の景色がそのまま映っているからです。 そんな独特の「つね吉流儀」をお楽しみください。

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