木曽街道六十九次 木曾街道上尾宿加茂之社

渓斎英泉/木曽海道六十九次

木曾街道上尾宿加茂之社

きそかいどう あげおじゅく かものやしろ

【つね吉】2024年〜2025年ごろ、水彩にて模写


「木曽街道六十九次」は1835年〜1837年ごろ 歌川広重と渓斎英泉が連作で描いた浮世絵のシリーズです。 (木曽海道と表記されることもあります) 江戸・日本橋と京都・三条大橋を結ぶ69箇所の宿場 そして出発地点の日本橋 合計70枚で成り立っています。 「名所江戸百景」全120枚を描き終えた、つね吉が 次に挑戦したのがこちらになります。 


「上尾宿」は現在の埼玉県上尾市にありました。

この辺りは鎌倉時代には源頼朝、戦国時代には後北条氏の支配下にあり、江戸時代になってから宿場としての認定を受けたそうです。

上尾宿は江戸を出発して、ちょうど丸一日歩いた所にあったので、旅籠がたくさんありました。

絵の中央に見えているのが立場茶屋(たてばちゃや)と呼ばれる茶店で、その前で男女四人が器具を使い籾(モミ)の精選をしています。

右の方には賀茂神社の秋祭りを表す幟(のぼり)がたくさん立てられていますが、実際の加茂神社は離れた場所にあったそうです。

茶店に休憩をしにくる人々。旅姿の武士と供のものや、荷を背負った商人が見えています。

絵全体をぱっと見るだけではわかりませんが、こうしてよく見ると建物の屋根や木々の描写が非常に緻密であることが伝わります。

つね吉が細筆一本で描いた描線は日毎に細かさと柔らかさを増し、見れば見るほど味わい深く感じられます。

江戸時代の記録によると、上尾塾には41の旅籠があり、49名の飯盛女(めしもりおんな=土地の遊女)がいたそうです。

その中の一人である「お玉」の墓がこの近くにある遍照院(へんじょういん)に置かれています。

お玉は貧しい家に生まれ、家族を養うため11歳の時に遊女となりましたが、上尾宿に立ち寄った武士の一人に見初められ江戸に入ったそうです。

ところが江戸で病に倒れ、再び上尾宿に戻り働くこととなりました。

家族のために無理を重ねたお玉は25歳の若さでこの世を去ったそうです。

当時の雇い主がお玉を不憫に思い、遍照院(へんじょういん)にお墓を建てて供養したと言われています。

遊女に立派なお墓を建てる事は珍しく、これも生前のお玉の人柄によるものと思われているようですが、この時代で生き抜いていくことの大変さが伝わってくるお話です。

秋にふさわしい、どことなく切ない色合いの一枚ですが、つね吉の絵筆が優しさと愛らしさを加えてくれたような気がします。






模写絵師つね吉八卦鏡

知的障害を乗り越え描く、無垢な魂の筆使い。 つね吉が描く色合いは、渋みが主流の浮世絵とはちょっと違っています。 彼の目は時空を超えて当時の景色をそのまま映しているのです。 そんな独特の「つね吉流儀」をお楽しみください。

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