はねたのわたし弁天の社
歌川広重名所江戸百景より
はねたのわたし弁天の社
水彩にて 模写絵師つねきち(2021年6月)
現在の東京都大田区羽田には
江戸から川崎大師や穴守神社への
寺社めぐりに使われた渡し船が多くありました。
はねたのわたしは
小島六左衛門組が営んでいたことから
別名「六左衛門の渡し」とも呼ばれていました。
この時代は橋が少なく
羽田から川崎へ生活必需品を運ぶにも
同じ多摩川をたくさんの船が行き来しており
江戸はまさに「水の都」と呼ばれるに
相応しい場所でした。
水の神を祀る弁天の社が
絵の左側に見えています。
この中洲は長年の土砂が蓄積し、できたもので
のちに、ここに羽田空港が作られました。
戦後には空港の拡張のため
社は大田区内に移されています。
中心に見えている
夜の水路を照らす石灯籠の常夜灯が
実はこの絵の中心にいます。
こころのけがれを焼き清める火を灯す
石灯籠は仏教と共に日本に入り
もともとは寺院に置かれたものでしたが、
江戸時代後期にはさまざまな場で用いられ
こうして灯台としても使われていました。
燃料は油で、風で火が消えないよう
周囲を木枠や紙で囲っていたそうです。
力強く船を漕ぐ船頭の
たくましい手足を手前に見せ
最も難しいと言われる”縦の構図”を
印象爽やかに映し出した
広重の斬新さを
つねきちが、こってりと色を重ねて写し出しました。
一見ざっくりとした仕上がりですが
版画ならではの高度な技を
しつこいほど、幾度も重ねた水彩で表現しています。
川幅は約80メートル。
人が大きな声で呼ぶと
対岸まで響き渡ったという、この場所は
川崎宿で商売する人々の
邪魔になるほど賑わっていたそうです。
魚介・農産物・衣料などの生活必需品や
寺社めぐりの人々を運び
日本の文化・交流に大いなる貢献をした渡し船は
昭和初期にこの地に架けられた
大師橋の登場により、姿を消しました。
とはいえ今見ても
「おーい」と呼ぶ船頭の声が
聞こえてくるような
力強い作品です。
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